医療者の基本的な心理として、どんな小さな健康リスクでも、ひとたび関心が向けられてしまうと、それが許容できなくなってしまう傾向性を指摘できます。医療者は意識的であろうが、無意識的であろうが、「限りなくリスクゼロを目指すことは前提としての義務」という観念に思考を支配されがちともいえるかもしれません。
実際、80歳を超えるような高齢者に対して、スタチン系薬剤のような心血管リスクの低下を目的とした薬剤が処方され続けていることは、(医療者の全てがそうであるとは言わないまでも)リスクゼロを目指す思考が健在であることの傍証でしょう。
明らかに不適切な薬物治療、あるいは明らかに適切な薬物治療は存在します。しかし、薬物治療の多くは、適切と不適切の狭間にあるのではないでしょうか?
例えば、「HbA1c値が6.0%未満の高齢者に対するDPP4阻害薬」は適切な薬物治療だと言えでしょうか。あるいは「心血管疾患の既往がない高齢者に対するスタチン系薬剤」はどうでしょうか。これらの薬物治療に対して、その適切/不適切をより分ける明快な論理は実在しないように思われます。
一方、「高齢者に対するベンゾジアゼピン系薬剤の投与」と言った場合には、少なからず不適切性の影が付きまとうかもしれません。実際、同薬の使用に関連した有害事象リスクは、膨大な数の疫学的知見によって裏打ちされています(青島.2018;DOI: 10.24783/appliedtherapeutics.9.2_25/)。
しかし、直観的な印象に捕らわれず、より注意深く考えてみれば、患者の状況や治療が行われている背景によっても、その適切性は変化するはずです。
患者個別の背景を考慮しなければ薬物治療の適切性が判断できないのであれば、「適切な薬物治療」、あるいは「不適切な薬物治療」という種類(カテゴリー)が、僕たちの認識と独立して実在しているわけではありません。
その意味では、薬物治療における適切/不適切という概念は、「種類」の問題ではなく「程度」の問題であり、適切/不適切という区別は、薬の側にあるのではなく、医療者の認識の側にあると言ってもよいでしょう。
今回の記事では、「ベンゾジアゼピン系薬剤の使用は潜在的に不適切である」という信念から距離を置き、「ベンゾジアゼピン系薬剤の不適切使用に関する問題」の本質を考えるためのグランドデザインを記したいと思います。